展覧会情報 NEW GENERATION 2

ニュージェネレーション 2
NEW GENERATION 2


未来が期待される20代中心の現代美術作家を紹介。


2000年9月より二ヶ月にわたり海岸通ギャラリー・CASOのオープニング展として開催された「TOWARDS UTOPIA」展は、4部門からなる構成でありましたが、その1部門だった「NEW GENERATION」部門を拡大して本展覧会を開催いたします。

この展覧会は、若手現代美術作家の発表の機会として実験的空間を提供し、同時に現代美術の社会的な支援を拡張するために現代美術の存在そのものを社会に提示することにあります。美術関係者(美術館学芸員、インディペンデント・キュレーター、芸術系大学教員、実績のある作家、美術批評家)が、その現場で眼にした、今後の活躍を期待できる国内在住の20代・30代の若手作家を選出しました。現在の、また未来への新しい創造へのアプローチを模索する展覧会を目指しています。

海岸通ギャラリー・CASOは現代美術の発表の場としては理想的な展示空間を持っています。この空間での展示は、若手作家にとっては創作のための有意義な体験であり、その体験は個々の作家の未来へのステップとなることを期待しております。  (NEW GENERATION展実行委員会)



主催:NEW GENERATION展 実行委員会 (06-6577-0998)
協力:株式会社住友倉庫
   富士ゼロックス株式会社 アート・バイ・ゼロックス
協賛:アサヒビール株式会社、トヨタ自動車株式会社、株式会社資生堂、
   松下電器産業株式会社、住友建設株式会社、
   セントラル警備保障株式会社、田中恒子
助成:社団法人企業メセナ協議会、財団法人朝日新聞文化財団
機材協力:日本ビクター株式会社、日本板硝子株式会社
資材協力:西村塗装店

開催期間
2002年3月2日(土)~3月23日(土)
開館時間
11:00~19:00(※月曜休館・最終日は17:00まで)
入場料:500円(高校生以下無料)
開催場所
SPACE A, B, C, D
展示内容
NEW GENERATIONインスタレーションギャラリーヤマグチドローイングパフォーマンス写真絵画
作家名
長尾 朋子 NAGAO Tomoko
高野 麻紀 TAKANO Maki
池田 朗子 IKEDA Akiko
中川 敦夫 NAKAGAWA Atsuo
林☆エミコ HAYASHI Emiko
阿部 浩二 ABE Koji
黄 亜紀 HUANG Yachi
北野 裕之 KITANO Hiroyuki

関連企画:

ギャラリートーク
  2002年3月2日(土曜日) 午後2時
   主催者、推薦者、作家を交えたギャラリートーク

オープニングレセプション
  2002年3月2日(土曜日) 午後5時

シンポジウム 「国際的美術展と今後の展望」
  2002年3月16日(土曜日) 午後3時~6時

  司会:森口まどか(インディペンデント・キュレーター)

  出席予定者:
   逢坂恵理子(水戸芸術館)
   長谷川祐子(金沢21世紀美術館)

  参加費:1500円
  予定定員:100名
  懇親会:午後6時より、スナック、ドリンク付き。
  参加お申込は、海岸通ギャラリー・CASOまで。
  (06-6576-3633 / caso@mrj.biglobe.ne.jp )

020302newgen-a0.jpg



作家/選者

長尾 朋子 (from大阪)
  /サイモン・フィッツジェラルド (作家、京都市立芸術大学助教授)
高野 麻紀 (from東京)
  /梅津 元 (埼玉県立近代美術館学芸員)
池田 朗子 (from岐阜)
  /松井 紫朗 (作家)
中川 敦夫 (from京都)
  /森口 まどか (インディペンデント・キュレーター)
林☆エミコ (from大阪)
  /永草 次郎 (美術批評家、帝塚山学院大学助教授)
阿部 浩二 (from大分)
  /山口 洋三 (福岡市美術館学芸員)
黄 亜紀  (from神戸/台湾)
  /藤本 由紀夫 (作家)
北野 裕之 (from京都)
  /武蔵 篤彦 (作家、京都精華大学教授)



長尾 朋子 NAGAO Tomoko

020302newgen-nagao.jpg

020302newgen-nagao2.jpg


1972年 大阪府生まれ
1998年 京都市立芸術大学大学院美術研究科修了


ただものを顕微鏡的に拡大して見たいわけではない。拡大も縮小もされずそのままの形で、別のものが見える瞬間を私は見たい。
それは、全体の中に部分が存在することではなく、全体と部分そのものが等価であることを意味する。
眼が極端に悪いことが、ものを見る上で影響するようになってから、対象を具体的にとらえることができなくなった。どんな色で、どんな形態をしているか判断する場合、ぼんやりとシルエットで認識するしかないので、近づけて見る癖がついた。それも、全体が分からなくなるくらい近づけてしまう。
そういう状況をあえて修正せずに見つめていきたい。



推薦者 サイモン・フィッツジェラルド (作家、京都市立芸術大学助教授)

長尾朋子は京都市立芸術大学大学院在籍中より写真の作品を創り続けています。
私の見ている範囲での作家の制作過程は、まず樹脂製と思われるものを加工して、掌サイズのものを成形する。
あるものは生物の内臓か細胞のような形をしている。あるいは玩具屋やショップで展示されているキャラクター商品の部品にも見える形をしている。制作の前の段階には何枚ものドローイングが描かれているようであるが、その形は作家の経験値から手を動かしていると自然に形作っていけるのであろう。いずれにしろ、他人の私には分かりにくい不思議な物体達である。
これらの物体達(素材)を被写体として複数選択し、配列しカメラのシャッターを押す。そして、最終的には大判の写真作品として提示する。
誤解のないように言っておかなければならないのは、長尾は写真、カメラの機能を熟知しているという理由でこの技法で制作しているのではなく感性の趣く方向がこの方法であったからのようである。完成された作品は不思議なことに一見グロテスクにも見えていた被写体の印象は殆ど掻き消されたかの様に、人をハッとさせる色彩と構図をもっている。
作家の若さにも関わらず作品そのものは洗練された新鮮さを感じる。それは長尾のもつ基本的な芸術に対する認識とか、自身の本来もっている才能、感性に起因するものであろう。つまり、先に述べた被写体なる物自身の印象と完成された作品の間には何か奇妙な無関係性を感じてしまう。被写体の、極端で片寄った言い方だが、醜悪なフォルムと美しく透き通ったような全体の印象とのアンバランスさが独特な世界を感じさせ、見る人に今迄にない不安定な(または安定した)居心地を認識させる。
往々にして見る人はその作品のイメージに在る具体的な物を認識し、各々の経験なり、認識に照らし合わせて作品を認知、もしくは評価していくのが常套の方法である。被写体の素材が具体的な印象を持つ程にそのことは如実に露呈してくる。そのことは長尾が最も注意を払わなければいけないことかも知れない。
今回の作品もある一定の水準を超えている質を持ったものが展示されると期待していますが、さらなる発展と、自らの才能を信じ新たなるアートにおける境地を切り開いていくことを望むばかりです。



高野 麻紀 TAKANO Maki

020302newgen-takano2.jpg

020302newgen-takano.jpg

020302newgen-takano3.jpg


1965年 東京都に生まれる
1989年 多摩美術大学絵画科油画専攻卒業


物と関われるのは、人の何だろうか。あるいは、人は何と関わっているのだろうか。
それを見てとるときの視線は人の心や感覚に作用もするし、それがまたものの理由でもある。
部屋の内から外をみることが出来る窓。二つを往き来する視線を全く異質のものとせずにつないでいるもの。二つの境目にあるもの。はたして人は何を見ようとしているのだろうか。



推薦者  梅津元(埼玉県立近代美術館 学芸員)

高野麻紀の芸術について

高野麻紀は1990年頃より、約10年間、東京を中心に発表活動を展開してきた。筆者はこの頃から高野の発表活動を継続して見てきたが、その持続的な制作に当初から強い関心を寄せてきた。
大学では絵画を専攻した高野は、1990年代前半は絵画を制作していたが、1990年代中頃より作風が徐々に変化しはじめ、机や棚のような形状の立体作品―例えば、1995年制作の<Untitled(9512A-09#02)>や1996年制作の<Untitled(9606N-06/Sisters)>など―へと移行した。その過程はどこかしらぎこちなく、いまにも倒れそうなあぶなさを感じさせる、実にゆるやかな推移であった。それは高野が自身の内的な必然性によって、自分の作品をじっくりと反芻しながら制作活動を継続してきたことの証でもあり、十分な説得力を持つものである。

その後、1998年と1999年の個展では、コンクリートのブロックにガラスをのせた注目すべき作品、<Untitled□□□>(1998)および<Untitled ・ ・ ・ ・ >(1999)が、それぞれ発表された。それまでの作品は、立体へと移行した後でも空間的に開かれた構造を有しており、その意味ではまだ絵画的なフレームの意識を感じさせるものであったが、これらの作品においてはコンクリートやガラスという硬質の素材の選択も作用し、明確なヴォリュームを有する形態の作品へと明らかに変化した。
どちらの作品においても、単体としてその直方体のヴォリュームに着目すればオブジェクティヴな把握が促されるが、複数のユニットとそのガラス面に着目すれば視覚的で空間的な知覚がより強調されることになる。両者はこうした共通点を持ちつつも、比較的大きなユニット3つが整然と並べられた<Untitled□□□>では前者がより優位に立ち、より小さなユニットが多数並べられた<Untitled ・ ・ ・ ・ >では後者が、より優位に立っているといえる。

そして、2000年の個展では、さらに注目すべき展開が見られた。壁面にわたされたテグスに支えられてややたわんだガラスと、その下の床面に設置された鏡からなる作品、<Untitled ═ >である。ガラスと鏡は正面から見て奥の辺が壁面に接するようにセッティングされており、水平と垂直が意識されるようになっている。この作品では、前述した1998年と1999年の個展で発表された作品におけるコンクリートのブロックに相当する物質的に確定されたヴォリュームが消え去り、ガラス面、鏡面、そして壁面によって形成される空間、あるいは鏡面に映り込む空間がこれにかわっている。この変化により、作品は安定した形で対象化される物質としてよりも、鑑賞者の身体的な知覚とともに現前する現象としての性格を強めることになった。
ここにおいて、高野は歴史的に先行する様々な美術史上の動向や傾向―例えば、絵画におけるフォーマリズム、絵画の物体化、それらの帰結のひとつの極としてのミニマル・アートなど―との様式上の類似から脱し、現在的な問題意識をよりリアルに感じさせるオリジナルな芸術の創出へと至ったと見なすことができる。また、この段階に至ったことにより、形式主義的な興味を優先させているかに見えることもあった高野の芸術が、そのモチヴェーションを、実のところ「日常」においていることがより明瞭になってきた。

高野の制作は日常に立脚している。その表現は、日常からの脱出や日常からの逃避ではなく、日常に立脚しつつ日常を超出することに向けられている。そこでは、個別と普遍、有限と無限という、芸術においても日常においても根本的な問題が浮上してくる。そして、この問題は、高野の芸術を享受する鑑賞者にも広く共有されることだろう。



池田 朗子 IKEDA Akiko

020302newgen-ikeda.jpg

020302newgen-ikeda2.jpg

020302newgen-ikeda3.jpg


1972年 岐阜市生まれ
1997年 京都市立芸術大学大学院美術研究科修了


制作ノートより

ココに存在している物にはいくつもの層があってさ、君はそのうちの一つを選んでいる。そして君はそれを重大に受け止めて時には悲しい気持ちにさいなまれたり、それがいつかなくなるんじゃないか?と心配して出来るだけ長くそれが続くようにと懇願したりしている。
目の前に見えるものだから、それは君の現実に違いないのだけれど、そこにあるものはフラットな平面(2D)ではないんだ。
(私はそこにある表裏の存在をはなっから疑わず話を進めている。)
"それは、層を持つ立体(3D)である"なんていったら君はどんな風に思うだろうか?薄い薄い何重もの層が、その時間と空間の中、君の目の前に"君の現実"としてある。(*物理的にも、感情的にも距離を感じるならなおさらだ。)
もしくは、君の現実を君が認識しようと思考し始めたとたん、そこから層が出来上がる。まるで、その先を見ようとする君の眼を塞ごうとするように、その視界に層を次々と形成する。
君は思う、その先は見ようと思えば見えるはずだと。でも、誰もその立体(現実)を裏側から見るなんて利口な事は出来ないんだよ。だって、裏側から見てると認識した時点で、君は表側に立っているんだと気付くだろう。だから、それは絶対に出来ない。
"絶対に出来ない事"に挑戦する人たちが、この世の中にはいる。のめりこんで、その立体の両側に立とうとしたり、ついにはそれ自体になろうとしているようにさえ見えることがある。その存在が、誰かを励ましつづけるのなら、彼らとその行為は存在しつづけるだろう。
最後に、もうーつ。君がその何層もの現実から、君の現実を選んでいる時、同時に君は他の現実を捨てている。



推薦者 松井紫郎(作家)

池田朗子の最近のビデオ作品「They've still stuck on your wall」では、バスの窓に貼り付けられた小さな飛行機と思わしきものが、窓の外を流れる風景とともに収録されている。もう少し正確に説明するなら、バスが移動している場面では、まるで飛行機がロンドンの町を飛行しているところを、さらに上空から見下ろしているかのように錯覚する。
それが「バスの窓に貼り付けられた飛行機という現実」に引きもどされるのは、バスが停車している時である。しかしそのときに感じる「現実」はもはや、淡々と収録された現実ではない。見る人の視線は画面に写っている風景から、いつのまにか「現実」を様々に受けとって見てしまっている自分自身へと向けられている。巧妙につけられたタイトルはそのことを暗示している。
そして...。このビデオ作品は、一見したところなんの展開も無いかのように進んでゆく。

しかし、無造作に窓に貼り付けられた練りゴムのような素材でできた飛行機、車窓に映る二階建てバスやロンドンの風景がもたらす旅のイメージ、それら周到に用意された舞台装置はやがて見る人にどこか懐かしい気分をもたらす。「現実」を前に戸惑う視線の先に、ちらっと垣間見える「記憶」。実はその「記憶」こそが、今そこにある「現実」をつくりあげるのではないか。

池田は、「記憶というのは想起に他ならない。記憶というのは何かが頭の中に残されているのではなく創造的に構築されるものである」というフレデリック・バーレット(英国心理学者/1930年代)の言葉を引用して「現実として受け止めている人間の現実感と、それをまた創造している人間の感情との関係性を考えていくのが大変興味深く、私は作品を通し、そこに起こる視覚的なトリック、物理的な特徴を使って、考察していこうと思っています」と、この作品の制作意図についての質問に答えている。
モチーフ、表現媒体の選択、ともに成功している作品だと思う。



中川 敦夫 NAKAGAWA Atsuo

020302newgen-nakagawa3.jpg

020302newgen-nakagawa.jpg

020302newgen-nakagawa2.jpg


1977年 京都府生まれ
2001年 嵯峨美術短期大学研究生修了


小さい頃に僕は、映画「遊星から来た物体X」(リメイク版)に出合い物凄い衝撃を喰らいました。眼をふさぎたくなるような映像は、今でも脳裏からこびりついて離れません。
この時から化物やグロテスクな物に惹かれてしまいました。
グチャグチヤどろどろ描いて描いて描いて描いて描きまくる。
繁殖していく様がたまらんです。



推薦者 森口まどか(インディペンデント・キューレーター)

中川敦夫の仕事によせて

冒頭から尊大に聞こえるようで申し訳ないが、私は誰かの仕事を展覧会などに推薦することが苦手だ。この仕組みはどうも推薦する側が偉くなって、推薦する作家を見下ろしているような関係が透けて見えて嫌なのだ。
鑑賞者側にもこの人が後ろ押しするのだからこの作家は云々というように、実作を見る前から心理的に何かを作りあげてしまう嫌いがあるように感じられる。ならば推薦者となることをなぜ引き受けたか。答えは幾つかあるけれど、いわゆる純粋美術から出発したのではなく、美術を相対化したところから自らの場を意識しているといわれる90年代以降の若い世代の感覚を、自分なりに見通すのによい機会にしたいと考えた。つまり、推薦する中川敦夫の仕事を通してまずはこの私が、新しい時代の空気を体験したかったのだ。

中川敦夫の仕事は「美術」というよりもコミックやアニメの領域に属し、サブカルチャーの一部としてのほうが理解しやすいように思われる。しばしば登場する恐ろしいのか、そうでないのか定かではない怪獣も、怪獣のペニスを遊ぶ女の子も、中川が作り出した形ではあるけれど、どこかのコミックブックに登場しそうである。
また、その描写スタイルやタッチは、60年代に流行ったサイケ調を思い起こさせる。どこかでこれまでに見てきた描き方である。さらには、マジックペンで止めどなく壁に書きつけてゆくのも、建物の壁やシャッターなどの落書きと変らない。事実、ロックバンドに依頼されて、CDジャケット用の原画もこなしている。
こういってよければ、中川は『動物化するポストモダン』の著者東浩紀の言葉を借りれば、現在形の「オタク系」であろう。「オタク」とは、コミック、アニメ、ゲーム、フィギュアなどのサブカルチャーに深くのめり込む人々を指すのだけれど、中川の在り方が印象的なのは、最早そうした領域が彼にとってのめり込む対象となるよりは、そうした分野を常態として受け止め、客観的に眺めている様子だということである。東によれば、90年代のオタクたちは一般に、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて自分で勝手に感情移入を強めていく、新たな消費タイプが台頭してきた、という。中川にもこの分析が見事に当てはまるように思われる。

おそらく10年前ならば中川の仕事は、「美術」の現場には登場していなかったであろう。だからといって、私はここで「美術」と他の領域との境界が曖昧になった現在を強調しようとは考えていない。そうした現象は既に周知のこととしてある。それよりも、ある世代以上の者には見覚えのある描き方と断片が寄せ集まった画面は、中川自身の日常のリアリティーを投影していることを確認しておくべきだろう。このことは同時に、現在の文化情況を多少とも浮き彫りにしてもいるのである。



林☆エミコ HAYASHI Emiko

020302newgen-hayashi.jpg

020302newgen-hayashi3.jpg

020302newgen-hayashi2.jpg

020302newgen-hayashi4.jpg


2000年 大阪美術専門学校 美術工芸学科 絵画卒業


monson marsとスクエアプッシャーとRADIOHEADとNASAと部屋のしくみとNHKと坂本龍一とCOLDCUTと竹村延和とエイフェックスツインと親とDRAGONBALLとアンダーワールドと久保友作とダフトパンクとTVゲームとNASDAと友人とマッシブアタックとその他もろもろ素晴らしい作品に出合い、影響されました。
自分のオリジナルの部分は、それらを選んで組み合わせた所ぐらいだけだと思っています。願わくば宇宙人を見つけた時位の興奮を、絵を描いている時に体験し、出来上がった時に体験し、見てしまった人にも体験してもらう。それは、生半可では出来ない事であるからこそあがきがいがあり、その度合いの物を死ぬまでに体感してみたいです。



推薦者 永草次朗(美術批評家、帝塚山学院大学助教授)

タイトル(必要なら):翻訳不能な☆によせて ―ブレイク・ミックスの視覚―
筆者:永草次郎(美術批評家)
以下本文:

2000年11月、林☆エミコの初めての個展を大阪・心斎橋のアメリカ村にあったタンク・ギャラリーで見た。
そのとき、キャンヴァス上の油彩がヒップホップしていると思った。すなわち、これまで憂いと湿気を帯びてきた伝統の日本洋画が、そこでは、エレクトロニクスやデジタル・テクノロジーに裏打ちされた高度な消費社会から生じる過剰な廃材とイメージをリミックスするクールなフィールドとなっていたのだ。

思えば、アートのみが廃材となった過剰なイメージの再生を行える。彼女は、デジタル化され消費されるイメージを手や筆という原始的なアナログで再描写し、ブレイク・ミックスする。ちょうどDJがターンテーブルでアナログ・レコードをそうするように彼女はキャンヴァス上でブレイク・ミックスを行ったのだ。そこにはひととおりの進歩のプログラムなどはありえない。高度なテクノロジー社会の廃棄物としてのイメージのブレイク・ミックスは、アナログの手法同様、必ずしも未来的ではありえず、ヴァナキュラーであったり、プリミティヴであったりする。まさにヒップホップの文化と共通している(都市の廃物がアフリカと遭遇するような)。
ここにおいて、ゲリラ的にどこからでも蜂起しうる前衛性を有したブレイク・ミックスのクリエイティヴィティーが、洋画という伝統的メディアをぼろぼろにしながら開花し、欧米のモダニズム様式の日本洋画的受容という日本のモダン・アートの図式にある憂いと湿気を払拭する。それは、ノイジーで解像度が悪い点において、芸術大学エリートを中心にしたホワイト・キューブのギャラリー派とは少し異なっていたし、同時に、油彩・キャンヴァスという由緒ある材質を用いた点でストリートのグラフィティと一線を画していた。

個展のあった通称アメリカ村(西心斎橋地区)は現在、ヒップホップ全盛である。ニューヨークのサウス・ブロンクスから端を発した非商業的で反体制的な文化がそこでは観光的商業地区の意匠として週末にティーンエイジャーを迎えている。もともと黒田征太郎の壁画を始めストリート・アートの栄えた地区であるが、グラフィティとしての美術は消費され、まさに消え去るものであるがゆえに顧みられることなく、消費と欲望の背後の環境を形成するのみである。
そうしたなかにあって、林☆エミコは、黒人の本物のブルーズならず「ブルース」という歌謡曲を形成した服部良一よろしく、ヒップホップな日本洋画を形成し、ドラゴンクエストやドラえもんを独自の線描によってキャンヴァスにとらえた(日本のラップがどこか「おてもやん」に似ていることと通じる)。それらは彼女にしかわからない線や形となり、都市の廃棄物のようでありながら、きわめて美しい色彩とフォルムをもっていた。それは、モダン・アートが求めたプリミティヴィスム以上に都市のプリミティヴィスム、エレクトロニクスのなかのプリミティヴィズムに達している。

ヒップホップの文化と同義と言えるそれは、しかし、実験室のようなギャラリーに生きたまま留めることが困難な代物だ。奇しくもバスキアは長く生きなかった。新しい世代の林はホワイト・キューブの中でも、ブレイク・ミックスした作品を生き永らえさせることができるのだろうか。その実験は始まったばかりで、彼女はまだ若いし、生きた生活者であり、隠棲する錬金術師のような芸術家ではない。
批評家の期待を裏切って、彼女は今後ますますアートからストリートヘとデグレードしていき、アートから逃れていくだろう。
それを絡めとろうとアートの方から追いかけて行くのかも知れない。所有されず、保存されず、記録されないブレイク・ミックスされたストリート上での視覚。それはアートでもエンターテインメントでもキッチュでもない都市の光景である。スモッグであり花でもあるようなエネルギーの表象あるいは痕跡である。
今言えることは、ある種のヒップホップから陳腐なビートを抜いたとき、抜け殻のように残る何かは確実にニュージェネレーションのアート構造であろうということだ。



阿部 浩二 ABE Koji

020302newgen-abe3.jpg

020302newgen-abe6.jpg

020302newgen-abe2.jpg

020302newgen-abe5.jpg

020302newgen-abe4.jpg

020302newgen-abe.jpg


1970年 大分市に生まれる
1992年 武蔵野美術大学短期大学部美術科卒
1994年 フランス、セットにあるヴィラ・サンクレールのレジデンスプログラムに参加
1998-99年 ポーラ美術振興財団の助成により、パリにあるシテ・インターナショナルアートに滞在


「夕方」

最近何気なく過ごしてると、新聞やTVから目に入ってくる情報の中に自分の知った顔を発見する事がある。よくよく見てみると実際は全くの別人でちょっと似ているぐらいかと思いなおす。そういった映像を集めて実際自分で絵に描きなおしてみる。他人でもなく知人でもなく、他人でもあり知人でもあるイメージが浮かび上がってきて面白いので「夕方」というタイトルを付けた。
「夕方」は、身体が昼型から夜型に切り変わる時間。実際の「夕方」を一万回以上体験してきたけど、その瞬間を永遠にするのは今しかないつもりであくせく描いている。
別府湾はこの時間、海と空が同じ色になり、湾を囲んでいる海岸線が空中に浮かんだような景色になる。



推薦者 山口洋三(福岡市美術館、学芸員)

作品の様式や外観が、時代の相を必ずしも帯びなくなって久しい。いまや全てが「美術」であり、その基準はそこに設けられたコンセプトや文脈のみである。しかし絵画・彫刻以外の芸術形態でも、即座に「現代美術(作品)」と了解されるような時代の到来を、私たちは手放しで歓迎すべきかどうか...。「美術を通してのコミュニケーション」が、「美術であるがゆえのディスコミュニケーション」に陥る危険。いくら美術が日常の領域に接近してきたとはいえ、それが「作品」であると了解される限り、それは日常世界から「脱文脈化」されている。美術作品と日常の世界は、背中合わせになってはいても、別々の次元に属する。

このことを認識した上で、別次元から日常世界にいかにアプローチするか―これを考え、実行できることが、現代アーティストの評価のポイントの一つとなるだろう。阿部浩二は、この危険を認識しているアーティストである。彼の初期の作品には「とってつけたもの」という題名が付けられている。それは、カンヴァスに襖の取っ手を取り付けた作品―まさに「とって(取っ手)つけたもの」である。しかしその瞬間、作品が「作品」であることをなかば無条件に保証する土台であるカンヴァスが、どこか知らない世界へと通じる扉へと変じる。しかし注意深くみれば、それはやはりカンヴァスであり、取っ手はあくまでも「とってつけたもの」に過ぎないことも了解される。それはある物が別の次元へと移行していく途上の一つの「状態」なのである。

阿部は、私たちが普段みなれている品物や場所の持っている機能や文脈を一端停止させたり断ち切ったりすることで、物事を不安定な「移ろいゆく状態」に置く。それは見る人々それぞれの意識が垣間見えるような装置となる。写真を感熱紙に転写し、商店街の一角にこたつの赤外線ヒーターを吊るし、美術館の展示室を「模様替え」する...。しかしその際の操作や介入は、かなり独自のものであるため、それが即座に「作品」へと変換したかどうかを判別することが困難な場合がある。しかしそれこそ、彼自身の才能のなせる技なのだ。阿部個人の好奇心に支えられて選び出された物事が、彼自身のわずかな変換作業を通して通常の意味や文脈から遠ざけられる。それが「美術」であるか、「作品」であるかを考える以前の状態の意識に、阿部の私的な好奇心が照射される。そして何かが変わり、今後も変わるかも知れないという期待感を、阿部は人々の心の中に生み出すのである。



黄 亜紀 HUANG Yachi

020302newgen-huang.jpg

020302newgen-huang2.jpg


1976年 台北市(台湾)に生まれる
1998年 台湾大学社会学科卒業
2002年 神戸芸術工科大学視覚情報デザイン学科卒業


「擬人化の私語」
擬人化の私語は私の初めてのシリーズ写真です。ごく自然に撮りたくなって無意識にこのような写真を撮っていました。コンセプトは複雑ではありませんが、コメントしにくいと感じています。ただ、この擬人化の私語は私が追求したい世界に一番近いかもしれません。
―無人だが何かが存在する。リアルだがファンタジック。沈黙だが饒舌。―

「隙間」
隙間はふだんは無視しやすい狭い世界です。しかし、この空間は時に広い世界と繋がっているから人はそうした隙間を見つけてその後ろの世界を想像し始めます。これは覗きという欲望の仕組みではないかと思います。従って、わたしはこの狭い世界を欲望のメタファーとして、光で空虚を満たす行為は人間が欲望を満足させる行動の隠喩として、表現しました。

「ある女性の肖像」
このシリーズは女性に対するステレオタイプのアイロニーです。顔とはいつでも不調和なビニールのシャワーキャップは女性に加えられるイデオロギーの皮肉として使っています。19世紀のステレオ写真の形や、時代に合わない服装を取り上げて、見られる対象としての女性の歴史を振り返らせます。日本という男性中心の社会での経験は私に女性としての存在を考えさせました。そのうえ、この肖像シリーズは私のセルフ・ポートレートともなりました。



推薦者 藤本由紀夫(作家)

何かと何かの間

2年前、一冊のノートを見た。黄さんのノートには、彼女が毎日考えている様々なことがらがメモされていた。そのノートの片隅に小さな文字で「empty but full」と書かれていた。とても素敵な言葉である。「この言葉が思い浮かんだのだが、どうやって作品にしたら良いかアイデアが出ない」と彼女は言った。私は「何も作らなくていいんじゃないの」と答えた。
一週間後、彼女のノートには「full but empty」と書き足されていた。そして「ますますどう作品にして良いかわからなくなった」と困った顔をしていた。それから、時々「empty but full - full but empty」という言葉が私の頭の中をかすめるようになった。
一年後、黄さんが作品を持って訪ねてきた。カラースライドと紙焼きの写真の数々がテーブルの上にひろげられた。そこには確かに「empty but full - full but empty」が映っていた。私自身もなんとなく考えていたイメージが、目の前で具体的な映像となって現れていることに新鮮な驚きを覚えた。そして、久しぶりに写真を鑑賞するという面白さを味わった。その時初めて、彼女が高校時代から写真をやっていたことを知った。
黄亜紀の写真は「何か」をとらえていない。彼女の目は「何か」と「何か」の間の存在に向けられている。日常生活の中で彼女が発見したemptyな場所は、写真というメディアを通すことによりfullな存在として視覚化される。そして、その写真を見ることにより、現実の空間のemptyな存在の密度を再認識することができる。
数年前の写真から最近の写真まで、この「何かと何かの間」をとらえるということが一貫しているのは少しばかり驚かされる。多分これからも彼女の目は、様々な「何かと何かの間」を発見して行くのだろう。



北野 裕之 KITANO Hiroyuki

020302newgen-kitano.jpg

020302newgen-kitano2.jpg


1972年 京都に生まれる
1995年 京都精華大学美術学部造形学科卒業
1997年 京都精華大学大学院美術研究科造形専攻修了


Spotted Darkness

Spotted Darknessは、人間の光と影の部分を意識して制作されたものです。
私たちは優れた感覚、優しさや、親切さ、上品さ、などを持ち、そしてその上、残酷さや、愚かさ、醜さ、などの感覚も持っています。
これら正反対の感覚は、複雑に互いに作用し、共存し、その上で、微妙なバランスで成り立っています。
このあいまいな事実が私の興味をひくのです。



推薦者 武蔵篤彦(作家、京都精華大学教授)

若手作家によって構成されるNEW GENERATION展がCASO海岸通りギャラリーに於いて開催される。いくつかの美術館やアートスペースが休館もしくは閉館を余儀無くされるなか、この海岸通ギャラリーCASOは国内の美術作品展示スペースでは他に類を見ない容量の大きい空間である。
今回の出品作家たちがこのユニークなスペースに自己の作品を対峙させる機会を持つということは、今後彼等の作品の展開に大きな影響を及ぼすであろう。
出品作家の資料に眼を通して感じたことであるが、異なった環境でアートを学んだ8名の作家たちは、流されることなくそれぞれ真摯な姿勢を保ちつつ独自の視点からケイオティックなこの時代を捉えようとしているように思える。
昨今、現代アートは専門的で難解なものは避け、誰が見ても楽しめるものを求める傾向が強くなってきたと耳にする。確かにいまのアートは美術のコードを失い日常に降りてきているし、それが常に難解なものであるべきとも思わないが、アートに携わる人たちは媚びることなくプライドと品格をもって、先駆者たちがそうしてきたように、社会に対してその表現を発信し続けるべきであろう。
ファーストフードやインターネットで満たされる現代社会に於いて、メッセージが直接伝わり分かり易いメディアアートやサブカルチャー的な作品でアートシーンは埋め尽くされている。メッセージ伝達の処理速度の遅い作品の出番はほとんど無くなってきているのが現状である。ひとつの方向に社会が流れ始めると、そのスピードは速く勢いも激しい。そんな時にこそ逆のベクトルの動きが重要な位置を占めるべきだと考える。むしろ頑なに自分のアートの領域を確認しながら、更に深くゆっくりと掘り進めようとするNEW GENERATION作家たちの方向性に私は共感を覚える。


Back

PAGE TOP